死球マントラ

全員しぬまで人形かぞえる

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『2001年 宇宙の旅』 スタンリー・キューブリック

2001年宇宙の旅 [DVD]2001年宇宙の旅 [DVD]
(2010/04/21)
キア・デュリア、ゲイリー・ロックウッド 他

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宇宙船の形が完全なるちんこ若しくは精子の形態を模写していて卑猥にもほどがあるし
宇宙船によるドッキングはすなわち性的な行為をかもしだしているしすべてが卑猥感に満ち溢れる映像の奔流に目を見開いても見開いてもねむくて殺す気かとおもいました100点
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『「12月8日、晴れ」 -路面電車考ー』 (2001) 高橋巌

実相寺と正体不明のソプラノボイスのお兄さんという異色のタッグが路面電車の魅力についてひたすら語り尽くすという電車好きなメンズにはたまらないけどそれ以外の人にはまったくもってどうでもいいキツい内容。なんか二人して「すごい、すごい。」を連発してるけどなにがすごいのかわからないという困った話。ごめん俺すごい電車とか興味ないんですけど楽しい?5点


『TAKESHIS’』 (2005) 北野武

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監督・北野武程、その訝しい作家性とかいうものを(半ば懐疑的な物言いによって)内容よりも先に「たけし」という記号でもって問われる人物もいないだろう。
なるほど、北野武は度々その一連の真っ当な映画作品群によってしても内容よりもあの「たけしの」という事象についてが多く論じられるという誠に希有な「映画監督」であるといえるだろう。そしてそれはやはり常に「たけしの」映画を見るときその「たけし」から独立した単体としての映画自体だけを見ることは我々としては許されずに必然として付随する「たけしの」という付加機能性その呪縛から解き放たれたフラットな目線では決して見れないというそれほどの強力な地盤がもはや体質として蓄積されているこの同族の日本人であるということは幸福なのか不幸なのかはわからないが、ましてやこれはその武が、自らの名を冠し、映画を撮った。
前述したように、地肌が既に「たけし」という記号で汚染された我々が更に「TAKESHIS’」と、追い打ちをかけるように銘打たれた強烈な記号に囚われた以上、「たけし(武)」を強力に意識しながら映画に臨むしかないという非常に限定的な状況下で画面に接する以外に選択肢の許されないこれは紛れもない「TAKESHIS’(たけしの)」映画である。
そして言うまでもなくこれは「映画制作」自体を主題とした映画なわけであるからして当然のように主人公はこの「TAKESHIS’」を撮る北野武監督そのものであるといえよう。画面上に配置される様々な「たけし(武)」は北野武監督自身がひとり衣装を着て「たけし(武)」という役者を演じているに過ぎない。当たり前だが。
だから「たけし」は映画内において複数登場しているように見えて実はそれは同一人物が衣装を着替えているに過ぎず(これも当然だが)、それ故にふたりの「たけし」は同画面内に全身が一度たりとも正確に捉えられることはない。それがあの些か前時代的な異様な映像的な演出に繋がるが、それはやはり、上記の理由からそれでなくてはいけない意味があるからだ。それはたけしが二人ではなく一人しかいないからで(正確には「TAKESHIS’」を監督する北野武以外に「たけし」はいない)あるという表明ともいえるだろう。
実際に衣装部屋で「たけし」が「たけし」に着替える場面があるがやはり映画内とはいえ「たけし」であるということはそういうことだ。仮初めの衣装を着せられて「たけし」を生きる。しかしたしかに涙目のピエロも人形もさすがに直截的だといえやはりそういうことなのだろう。いくらもがいても、いくら夢のなかで死んでも、いくら映画のなかで人を殺しても、そして何度も「たけし」を殺しても、やはりその仮初めの姿の人形使いである監督「北野武」は、「北野武」であるという現実に変わりない。この映画内の登場人物(役者)の「死」にも「痛み」にも現実感が希薄なのもその為だ。
ピカソはキュビズムに於いて自分(のよう)に見える断片を平面に当てはめてそれらを組み立てることによって《自分》を表現したが(「TAKESHIS’」のポスターのように)、それはふつうに自画像を描いても結局キャンバスや鏡の前でピカソらしくポーズを取りピカソを演じる人物(役者)を描くことでしかなかった事に気付いてしまったからだ。
だから北野武は、映画に登場する「たけし(武)」によって、個々の解体された北野武の断片によって、監督であり主人公である北野武そのものを描こうとした。
これはその北野武その人の解体された断片をフラクタル状に構築して映画の形をとっているのであってまたそうすることによって浮かび上がってきた北野武こそを見るべきである。そしてその北野武の実像とは観客がこの映画を見終えた後の、題名の「TAKESHIS’(たけしの)」のあとに連なる文字を想像する時に託されるだろうがなんておそろしいこの終盤にかけての異様な4つ打ちキックの昂揚と叙情的な可笑しみとでも言うべきこの切迫感と切なさの感覚は何だろう本人不在の喧噪のようなそうこれはfuneral的な、幽体離脱的視線感覚とでもいえるだろうか。「TAKESHIS’(たけしの)」funeral(葬式)でも見てるかのような。そして劇中、彼の乗っていた車が、ロールスロイスのファントム(phantom、幽霊、幻影)であったのは偶然であろうか。
しかし少なくとも、最後の銃声の行方とおっぱいスクラッチに、彼はたしかに救われたのではないか412点

『es(エス)』 (2001) オリバー・ヒルツェヴィゲル

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なんか擬似刑務所のような設定で「囚人役」と「看守役」にわかれてのそれぞれの人間の極限状態の心理考察みたいな実験するんですけど実際の刑務所内のほうが断然ひどくなってる有り様なはずなのにあんな3日かそこらでなにも腕立て伏せさせられたくらいで人間は狂うかねという話だよね。というか刑務所ってそんな極限状態を作り出すほどの空間でもないと思うんですけどそんなデータが常識化してしまったらあれだ例え罪を犯した人間ではあっても7日以上の拘束は無理とかいうすごい新発見ということに。だいたいそんな腕立て伏せが強烈に心に深い傷を刻み込んでしまうような繊細な弱い人種たちの特殊な心理戦とかすごい参考にならないんですけどこれ人選がそもそも間違っていたという解釈でいいですか?そんな刑務所で菊門をこれでもかと拡大させられて出血している実際の受刑者の皆さんはそらもう現場復帰不可能なくらいに間違いなく全員狂うよとかいう結果が導き出されるはずなくらいにこの実験間違ってると思うんですけど。だいたいガス室大量虐殺とかおしゃれな部屋を考え出した鬼畜頭脳のドイツ人らしくないやさしい発想がみちあふれているよね。これ暴力が許可される大前提のもとにこそ人間の徹底した服従という心理図式が成り立つはずなのであって看守とはそもそも暴力的であるべきなのです。バイオレンスの無い看守なんてただの普通の人となんら変わらないのです。暴力なくして秩序はうまれないのです。看守がただの人と違うと認められるべき唯一の差異はそこに暴力が存在するからこそです。差異は階級をうみます。階級を秩序立てるのは暴力です。囚人と看守を区別するものそれは暴力的な権利を有するかどうかなのであってそして生産的な暴力を駆使することができるというのはまさに看守の特権といえます。その魅力的な権力のためにこそ男は全員看守を目指すべきなのです。卒業文集には将来の夢はパイロットか看守になりたいとおもいっきり書くべきです。そこには夢があるからね。暴力には男の子の夢が託されているからです。だから徐々にバイオレンスを獲得していく看守役の人たちはその実験によって予め設定上剥奪されている暴力的な役割機能を取り戻すという行為によって肉体に内在する人間の本能的な夢に向かってつっ走るのですそれはある意味で社会に剥ぎ取られた人間らしさでもありつまりは人権の奪取の旅であるともいえます。人権無視な行動に移るにはそもそも人権を持たなくてはならないからです。看守は暴力によって自らの人権を再確認するのです。そして暴力には自ずと権威が付随します。だから暴力のもとにはみな服従するのですっていうもうめんどくさいので適当な結論でいいですか58点

『MAY -メイ-』 ラッキー・マッキー 

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友達がいないからだったらいっぱいお気に入りの体の部位を集めて縫合して作ってしまえばいいという極めて頭の悪い映画。こういうので興奮するのが許されるのは中学生までなので大人な僕には通用しませんでした。51点



『KEN PARK』 (2002) ラリー・クラーク

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なんて迫力が出ないキッズたちだろう。というかなにもかもが迫力を欠いているのでなんて見るに耐えれる迫力のポルノグラフィカルだろう。どっちにしろ迫力がないのはスケーターには筋肉がないからだ。だから人間としても迫力が出ない。ましてや説得力など生まれるはずもない。対して息子に筋肉つけないと男としての迫力がでないとお説教する親父の迫力。あれこそまさに生きている存在感が半端ない。肉体の直接的な結合が精確にはいくらかもその迫力に貢献してないのに比べるとベンチプレスで250kgをあげる暴力的な肉体がうごくときの迫力。あんなにまでも排尿行為の無防備なすがたでさえバイオレンスそのもの。ましてやおもわず息子のツルツルした体をなでまわして勢いあまっておもわず息子のペニスを鷲掴みしてしまう初期衝動のあまりのピュアなつぶらな瞳の暴力的!息子が起きてしまっても「だいじょうだ、おとうさんだ」の意味不明な説得力!あんな偉い父親は日本にはいない。なぜなら彼は筋肉の真の意味を理解しているからだ。スケーターなひょろいキッズたちは一生えらくはなれないだろう。なぜなら筋肉が偉いということに無自覚だからだ70点

『八月の濡れた砂』 (1971) 藤田敏八

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だからこういう夕焼け不良番長が帰ってきたぞ的な夏真っ盛りなアナーキック青春エピソードはおれ超好きだって言ってるでしょ。いきなしサッカーボール学校の窓に蹴りこんでガラス粉々にストップモーションララバイ的な下校時間の触わるもの皆傷つけてた的な思春期の爆発そして心なごむ健康的な芳醇なエロスと豊満なタナトスがせめぎあって美女争奪戦がそこかしこ勃発でその結果欲望の反転は崖から投身自殺してて素敵なあの子はガリ勉の暴発に清き交際から裏切られて殉死。なんて素晴らしい健康的且つ爽やかに鬱積系な暗黒が描かれているんだまるで成熟した性的環境の醸すこの頽廃した刺激!もうこの胸の高鳴りがもしや周囲に響き渡っているのではないかしらとか思ったりだ。
つまり好き。なんかヨットの描写が太陽がいっぱいでしたが船舶免許は当然のごとく持ってないのに運転してました97点

『13日の金曜日』 (1980) ショーン・S・カニンガム

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これはね窓がこわいよ。窓なんてそのへんにいっぱいあるから見られてるしこわいよ。外から見られてるのわかるからこわいよ。視線に囲まれているかのように多数の窓が画面にうつりこむ不自然な構図だし不安感が炸裂してやまないよ。じぶんが明るいところにいると暗闇のなかに潜伏取材してる人の存在なんてこっちかからは見れないなんてそれは比喩ではなくて物理的な事実だ。だから常にこの明かりを求めて、もしくは煌々と自分を照らしだし現在位置を知らしめるキャンプ場の登場人物のえっちな妖精たちというか子猫ちゃんたちは惨殺の標的として最適の環境をみずから作り出していると言わざるを得ない。そしてなによりこわいのは第三の目がつねに暗闇のなかにあり執拗に標的を捉えるその姿とぼくらの目が一体化してしまってること。もはや死ぬね、こいつ!まじで。といった何気ない観客の感想は殺人鬼の殺害予告と一致する。それでいて外人の短パン姿もじつに好ましいカントリーを奏でていてそんな陽気さに反逆するかのようなデッドヒートがその後おこるなんて小学生でも知ってることだ。でもその殺人鬼目線のいやらしいところは常に情事な場面を覗き見してしまうヤングな無防備の健康的エロスへの嫉妬とでも表現できよう。でも不満なのはあの高度な弓使いがそのスキルでもって反撃どころか逆に射的で串刺しといった場面で完結してしまっているところであって終盤殺人鬼があの女の子と拮抗したキャットファイトを繰り広げることから推察される戦闘力からするとあれほどアホ外人たちが一方的に惨殺されるのはけっこう謎。というか窓から死体を放り投げてくるパワーがどっから出てくるのか謎。というかけっこう最初スポットライト浴びまくってた料理番のギャルが主人公とみせかけて一発目で殺されたの笑った。
そして何よりジェイソンのホッケーマスクなんて一個もでてこないなんて信じられるかい。たしか2は袋かぶってたから実質のビジュアル確立は3?くらい?ぼくらのジェイソン像はまだ登場しないよ。ということは別にこれ、そんな偉くないじゃん91点

『WAR REQUIEM』 (1989年) デレク・ジャーマン

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今後おれの人生のなかで絶対デレクジャーマンは無視して生きていく決心してたはずなんですけど何故か見てしまったというこれマジ有り得ないのでほんとどうでもいいよ楽しませる気ゼロすぎるのでまあひどい有様なんですけどというかまだ見終わってないんですけどすぐ眠くなるのでいつ見終わるのか不明なのでこんな感想とかどうでもいいです。なんかベンジャミン・ブリテンの『戦争レクイエム』という音楽と戦争詩人のウィルフレッド・オーウェンの詩が前提としてあってそれにただ映像を付けていくという作業をしているような作りの気がするのですが大体音楽の盛り上がりの場面で本物の戦争映像を挿入してる時点で逃げてるもの。そここそがデレクジャーマンの力量というか見せ所のはずなのにそこ本物使ってどうする。まあこれから続き見るけどつまんねーのは間違いねえよほとんど拷問の領域10点

『十六歳の戦争』 (1973) 松本俊夫

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なんか半端ないズームイン多用で異常な世界が出没してました。だいたいにして歌も異常に暗い手首がくるくる回転して空中にもぎ取られる感じだよ。これはかなり僕の好きな気配の爽快感高度ゼロ地平線上の呪怨フォークソングを熱烈シンギングだよ。もしやこのあきらかにカリスマ棒読みを炸裂させてる男子が歌ってるわけ?なんかいまだ学名が付けられてない新種の昆虫とか棲息してそうな異常な髪型のこの子が?という200回くらい線路に投身自殺しそうな勢いの歌にのせてけっこう健康的なエロスとタナトスの清純派な暗黒青春が爆発する予感にぼくの青春回顧録にもついでにズームイン。でそんな男の子なぜにそんな絶望的なテーマソングに陥ってるかと申しますとなにやら美人さんに妊娠を告げられるに、ならばもしくは中絶すれば?みたいなやんわりと非道な発言したばっかりになぜか墓場というロマンチックというかネクロマンスな場所にてなんで私と結婚してくださらないのとか激鉄にすさまじく追い込まれたあげくに結局おもいきし逃げた。超逃げた。ヒッチハイクしてまでも延々と逃げますのですけどそれがなにか?とかいうそんな振り返ったら奴がいる過去をもってたりだよ。そんな感じのお話だったような気がするよ。たぶん。と見せかけていつのまにやら反戦ムードに変遷する変態松本俊夫の世界。水死体の脇で16さいの女子との運命的な出会いとかあきらかに設定が異常。どうりで漫画タッチの奇形的な髪型はさすがにやることが人並みはずれた逃避。その逃避とはあわよくば戦争責任から意識的に目を逸らし続けてきた日本人という大きな枠組みに呼応する。とか突然変異いきなし話が壮大に。仮面の行列の強迫観念めいた追い込み包囲戦線とかもうどうしようもない圧力が炸裂してるし爽やかな青春に徹しようともその変態性は隠し切れずに出現したりで何気にメッセージ色が強烈なかんじだったけどそれはそれでどうでもいいかんじでしたよね90点

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