死球マントラ

全員しぬまで人形かぞえる

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『ある殺し屋』 (1967) 森一生

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のっぴきならない!これはのっぴきならないよ。一文にもならない殺しはやったことがないというほどに拝金第一主義の殺し屋さまはわりと無欲のようでいてその実おかねに異常なほどの反応をみせるよ!過去になにがあったのか彼と消費者金融の関係の歴史を紐解いてみたくなるほどの尋常では考えられない執着心!けっこう第一番目の殺しの時には悪を滅するという社会的な正義というか道義的な制裁責任の名の下に渋々と殺しというハードボイルドを請け負った悲しみスナイパーかと思いきや二億の依頼金の殺しのときには一切の躊躇する瞬間さえなく即答する俄然ヤル気!
カネか?所詮カネなのか?
と、ぼくら少年少女たちに夢を与える職業7年連続首位独走のかっこいい殺し屋さま像としてのスター性を見事に否定し粉砕していきます。いまにしておもえば一度依頼をお断りするのもそれはあきらかに報酬額を吊り上げるためのビジネス上の常套的な駆け引きにすぎないのであったのだとこっぴどく思い知らされるほどの淫乱だ。つまりはこの伝説的な殺し屋様には些かもその仕事として捉えられる殺しという一連の作法のなかにおいてはまるで慈悲であるとか情けであるとかおよそ人間的なもの、その殺しに関する動作環境に影を落とすであろう要因が完全に排他されているのでありそれどころかその殺しという究極的な代行業は殺し屋様にとっては当たり前のように仕事としての認識しかないのであり仕事以上の認識でさえもない、時にはその事務的でさえあるその猥褻な動きは流れ作業的ベルトコンベアー式工場長の風格さえ漂うであるだろうそしてそれがかつてないほど労働そのものである以上躊躇も迷いも至極当然であるかのようにそこには見当たらないのである。殺し屋を稼業とする男、それは当然のようにビジネスを成立させるうえではあたりまえの、人が出来ないからこそその殺しを人から請け負うのであり、人が出来ないことを仕事として引き受け完璧に遂行する、そこに感情が立ち入る隙間などない。いやあってはならないのだ。殺しを達成することに一喜一憂することは殺し屋さまにとっては不必要な猥褻な感情なのであり喜びも悲しみも怒りもすべては無表情の鉄仮面そのものに収斂されるというおそるべきそれはそれは淫乱な殺し屋様なのだ103点
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『白い記憶の女』 (1988年) ゴードン・へスラー

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ジーザスなんてことだ!深甚な恐怖がおれを捕えて連続でバックドロップを仕掛けてくるがしかしおれは皮膚性ヌルヌル病なのでいっぱい脱出できる!だいたいにしていきなり甲板に座禅した女が突如出現した謎の画面の時点でもう俺のハート鷲掴み!しかもあんな鮮明戦慄な音声で霊界電話とか発信してきたら、もうね、確実におれ泣く。しかも波にのって仰向けの状態でぐいぐい力強く波状攻撃で迫ってきたりしたらそらこわいでしょ。こわいよね?うん。こわいよね。わかってるならなんでおにいちゃんをこわがらせることとかしちゃうのかな?え?なんでするのかって聞いてんの!ばか!
ということででもそんな恐怖劇場に陥るのもやむなしというくらい同情の余地がないほどの決断をこの女はしたのだ。その決断は決して美化される類いのものではないということが本来ならば正常な人間の常識的な判断と言えるはずなのにこの女の説得力は圧倒的だ。まるで美しい物語だと錯覚してしまうほどだ。不思議にこの女は悩ましげだ。悩ましげという点において破壊的だ。だからあやうくぼくのような善良な市民は騙されるところだ美しい愛ゆえの行為だとか暴力的なまでに愛に生きたとかの正当化が脳内で判決がくだるところだ!あぶない!これは重厚な問題提起だ。たしかにこの女は愛に生きる。でもそれはひとつの愛を捨てたうえでまたひとつ別の愛を選択したに過ぎん。愛を捨てたのだ。愛のために愛を捨てているのだ。しかもそれは確かな肉体的な絆を捨てて突発的な、そこになんの永続性も確実性も保障されない愛を選択したのだ。それはやっと運命的な存在を見つけたとかいう少女漫画的な稚拙な美徳に則ったファンタジックな側面よりもむしろ現代においては逆にその瞬間的な行動の突き動かされ方が狂気としてとらえられるそれはそれは中学生的な発想の範疇の域をでないであろう筋肉的な教科書だ。しかしながらその愛の形の脆さと危うさの魅力というものもまた認めざるをえないところだ。つまりその早急な関係の築かれ方がまた更に崩壊をも同様に早急に立ち現れる可能性を示唆してやまない。そこがまた魅惑的な、堕落することへの果てしない欲求だ。だいたいにしてなにかにとり憑かれたかのように新たな生命を希求するがごとく生殖行為に激しく打ち込むという背徳的な破壊性、それはそれで男にとって実は嬉しい反面と悲しい側面をも併せ持つ虜術でもあるだろう。とにかく愛とは不確かなものであるかどうか正確には知らないけれどぼくらが確信にみちていたものをこの白い記憶の女は圧倒的な速度で覆すのである。究極的に残るのは選択肢としては他人よりも他人ではない、より近しいもののほうがより強固な絆を約束すると信じている正当性というものを完全に覆した行為を繰り広げるのでありこれでもかと神をも畏れぬ攻撃を繰り広げるのであってしかしそれでも鬼畜阿修羅印象に陥らないのはこの女の存在感がある種の崇高さを帯びているからであの法廷での発言の誘導の場面などは神の意志さえかんじたほどの原爆的な威力であるだろう。非力な人間の力では到底抗えないなにかがすべてを操作していてその記憶の中での出来事をぼくらは反芻するように生きる、そんな眩い白い記憶のなかでさえ女は永久に訴求力を失うことなく生きているのでありその姿と触り心地の確かさはまるで覇者だ100点

『そして僕は恋をする』 (1996) アルノー・デプレシャン

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なんでこの人たちがこんなにもみんなケツ顎であるのかは未だ解明されていない人類学史上のミステリアスでありそして世界生態調査委員会の報告書の観点からみてもおおいなる謎である。はっきりいって人が住めるくらいなので一体なんなのかその巨大な力というものに遭遇してしまうときに人は計らずも無条件で畏怖してしまうそんな瞬間があるがそれは恋に落ちる瞬間と似ていなくもない気がしたが実際には似ていないだろう。なぜなら恋におちるという事はなにかを破壊する覚悟をもつという責任の物語であるからだ。つまりはたとえケツ顎ではあってもそのケツ顎であるからという理由だけでその対象人物を破壊できるかその覚悟が果たして日本人に持ちうることは可能なのであろうか。おそらくはその見慣れないケツ顎という習性にぼくらは恐れをなすに違いない。知らないということはおそろしいからだ。同様に、人を知っていくという興味にはある種の恐怖が付随する。だから恋はおそろしい。でもおそろしいものに興味があるのもまた人間なのである。おそろしいからこそ力でねじ伏せ破壊し尽したいのでありいや破壊しなければならない、恋とは総じて破壊的であるべきなのである。なにをも破壊しないものなど恋とは認められるべきではなくてそれは真摯に人間と対峙しようとしていないことを宣誓するようなものである。にんげんとは互いに破壊しあわなければいけない。なぜなら自分以外の人間などおよそおそろしいものにちがいないからだ。ミラン・クンデラは優しさを成年期の恐れといっていたが郷愁を持たない人物に恐れはないのでありつまりケツ顎への郷愁度という点において西洋人よりも遥かに劣る民度の日本人にはこのケツ顎の恐怖が物語る虞というものに、果たして対抗できる手段など持ち合わせているはずもないであろう。それは恋に絶対不服従を唱えてもその言葉を唱えてしまうこと自体が服従を意味するのと同じである101点

『斬る』 (1962) 三隅研次

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動きがギコギコしてて気持ちよくて僕は下半身を掻き毟ってその時間と時間のあいだを漂うことに成功している。まるで鋼鉄が体を覆いつくそうと腐乱している最中であるかのようなそんなギコギコとしたものを僕は現代において他に思い出すことなど出来るのだろうか。それはつまり電解が小説する瞬間ともいえるのでありまさに画面を通して見る報道という部類に属する人間的な行為であるだろう。それは追従をゆるすべきではないということでもありレイプであるということだ。斬るということは明らかな人体への裂傷を司るのでありつまりは人体の強度を掌握するということだ。硬いということは重いということだ。重いということは感触が手の痺れが伝説する物語それは不死身であっても切り取ることによって重いということ。感触が歴史作るというよりもむしろ年輪を弔うとギコギコ擬音を伴うということであろうか。それはわからない。わかりたくもなければ教える気もない。流れる血はキリストなのでありからだをまっぷたつに丁寧に斬り取ることはキリストをレイプすることでもある。それは外人を蹂躙することによってはじめてその真価を発揮するのであり日本人の斬るのは清らかな体に限定されるべきでありつまりは日本人はとてもとても清潔な体をしていた、ましてや自分に関わる女性とはすべてが清らかな社会であってほしいと剣士は願ったのである。それはおちんちんが綺麗であって初めて願うことの出来る特権のようなものである。綺麗な体の中を流れる綺麗な血液が綺麗な体の穴から綺麗な皮膚の上を綺麗な奔流でもって滴り落ちるすがたは綺麗であるだろう。しかしながら自分がどれほど他と比較して綺麗であるなどと主張できるだろうか。比較とは多数をもってして比較たるのであり無数のおちんちんをどれだけ食卓の上に並べれば美しいと思える日々が夕日を射ち込むのだろう。それはきっと耳がふたつもあるからではないのだろうか。右側だけにふたつあったとしてそれが悪であると誰が折檻できるのだろうか。わからない。わからないけれど教えられたくもない。しかしながら僕あの構えすぐできる思うほんとだよ107点

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