死球マントラ

全員しぬまで人形かぞえる

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『デモンズ’95』 (1994) ミケーレ・ソアビ

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墓守の男が死者と生者の区別がわからなくなっていくという素敵な話なんですけどまるでデモンズと関係ないのに適当に付けられてしまった邦題があまりにかわいそうすぎるこの駄目タイトルに騙されてはいけない発狂系最高レベルの傑作です。さて墓守の男はじぶんのテリトリー内の墓地から死者が毎日一生懸命土ほじくりかえしながら這い出てきますのでもはや彼にとって死の概念とは一度目の正式に埋葬された死とは厳密には死ではなくて自分の手でリターナー(生還者)の頭を破壊してはじめて正式に死と認識されるものとなります。しかしその非日常的な異常な光景であるはずのリターナー狩り場面ももはや死を司る職務を全うすべく死者を鎮圧してるにすぎず彼にとっては本来一度目の埋葬で仕事は完結するはずのところが勝手に甦ってくるばかりに“残業”せざるを得ないというその労働が日常化してしまっているばかりに実にかったるそうにほぼ義務感ばりに(その墓地とは市営ですので墓地の治安と安全を維持するためにも甦った死者が墓地の“外”に脱出することを抑止し市民の安全を守ることこそが公共事業の意義でなければいけないからです)死者を殺す日々の気怠い虚無感がすばらしいことになっております。しかしこの作品で重要なのは一度死んだはずの死体が甦る時にそれは数多のゾンビ映画とは違い生前に限りなく近い形(人間であることの記憶に基づく人間的な動作)を保ちながら甦ってしまうことでありそれがリターナー(生還者)と呼称される由縁でもあるわけです。だから生前と同じように銃を手に取り生者の恋人とまぐわいバイクに跨る腐乱した生還者たちの姿を見ながら一体それではなにをもって生者と死者とを定義づければいいのかという謎を生み出しています。いくら死体処理が公共事業だからとはいっても彼らを殺すことは市民の利益に還元される行為なのでしょうか例えば恋人が望むなら死者が生還することは実に喜ばしい再会ではないかねというむしろクソみたいに生きている町の住民を殺す事の方こそがいくらか有益な公共性さえ秘めているのではないかという恐ろしい発想に辿り着いてしまうわけです。生きているのも死んでいるのも同じ皮膚から生成されているわけで厳密にはなにひとつそこに差異を見いだせないのだとしたら彼のように生きている価値もないような生者は皆殺しすべきとのボランティア精神でもって危険な責任感と自覚さえでる始末。いい迷惑ですよね195点
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