死球マントラ

全員しぬまで人形かぞえる

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『グエムル 漢江の怪物』 (2006) ポン・ジュノ

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わかってるとおもうけど人生にダイナミックを要求していい夢見がちのアイドルを目指すのは中学生までと可愛い子だけの特権だ。いいか自称ではなく客観的な意見を根拠とした支持率の高さが自然と物語る可愛さが条件だ。でも危険なのはからだを許すまでは誰もが男の子は総じて女の子にたいして可愛いね可愛いねと囁くことをものともしないのでそれは実質、可愛いと言われたことにはカウントしないというは大人の世界ではよくある話だしそんなことはいうまでもあるまい。それは残念ながらダイナミックな次元の話ではない
だからつまりは日常とは基本的にダイナミックでないことを指すのであり漢江というフィールドの持つ意味とは彼の有名な「ハンガンの奇跡」という言葉にあるように其処はたしかに平和と希望のみなぎる筋力の場所なのでありいわばダイナミックといちばん懸け離れた日常がひろがる場所の象徴でもある。そんなピースフルな草原に突如としてダイナミックが生じる瞬間は平和的な光景とはもはやいえない。平和的な光景の維持と共に人生にダイナミックを希求することは平和的であることを放棄することをも意味する。ダイナミックと平和とは共存しえないのであり人生にダイナミックを求めてはならないのはその為だ。つまりは戦争とはダイナミックであることを肯定する行為のことでありそれはかっこいいということともおなじだ。では平和的な日常にダイナミックが加わると人生が変わるかというと答えはノンだ。風景の中に自然に融解するようにダイナミックの山脈は人生の広大な一風景の起伏に呑み込まれるのが常である。
漢江に怪物が登場。それは非日常的な光景であるかのようにみえてあくまで日常の一風景にすぎないほどに日常とは斯くも大きく広い。白昼の只中で起こる殺戮人権国際大虐殺風景でさえもあくまで風景の日常性的許容範囲のなかに収まりつくかのようでありだからこそ変わらない日常的な様相をすぐに取り戻せるのである。
もっといえば非日常であることとは一種の時間的な慣れが解決することでもあるので非日常の累積がつまりはおおきな日常の一部分を形成していくのでその人生展開どうでもいいといえばどうでもいい問題でもある。
でも可愛い子だけは違う。条件が違う。可愛い子はみんなに愛されているのでその子がどのうような道程を辿りおっぱいが豊かに発達するかは一個人の問題とはもはやいえない。どうせなら俺よりかっこいい逞しい男の手によって強引に揉みしだかれて欲しいしその両手でわしづかみしたときの弾力と低反撥をめぐる諸問題の感想はひろく伝聞してほしい。それは一個人の人生を巡る話ではなく共有財産についての助言である。つまりは人類の智慧の累積共有が後の伝説になるからである。人生には差別があって望ましい。殺される人と殺されない人と死んで欲しい人と死んで欲しくない人に日常的にセグメントされている社会こそが健全なのであってじっさい食べられる人と食べられない人に仕分けされることとそして殺すこと(殺されること)に理由を求めることでそれが無差別でないことに、非常に差別的であることに、ひとは生きる希望を持ち得る。無差別殺人っていうよりも実情としては殺人というのはものすごい差別的な行為であるのだしあの娘だってもう少し鼻の穴がきれいだったら殺されなかったかもしれない。米国も政府もだれも救わない。娘が死んでもなにも変わらない。それが「日常」なのであり怪物の登場とは人生を豊かにダイナミックに転化しない80点
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