死球マントラ

全員しぬまで人形かぞえる

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『斬る』 (1962) 三隅研次

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動きがギコギコしてて気持ちよくて僕は下半身を掻き毟ってその時間と時間のあいだを漂うことに成功している。まるで鋼鉄が体を覆いつくそうと腐乱している最中であるかのようなそんなギコギコとしたものを僕は現代において他に思い出すことなど出来るのだろうか。それはつまり電解が小説する瞬間ともいえるのでありまさに画面を通して見る報道という部類に属する人間的な行為であるだろう。それは追従をゆるすべきではないということでもありレイプであるということだ。斬るということは明らかな人体への裂傷を司るのでありつまりは人体の強度を掌握するということだ。硬いということは重いということだ。重いということは感触が手の痺れが伝説する物語それは不死身であっても切り取ることによって重いということ。感触が歴史作るというよりもむしろ年輪を弔うとギコギコ擬音を伴うということであろうか。それはわからない。わかりたくもなければ教える気もない。流れる血はキリストなのでありからだをまっぷたつに丁寧に斬り取ることはキリストをレイプすることでもある。それは外人を蹂躙することによってはじめてその真価を発揮するのであり日本人の斬るのは清らかな体に限定されるべきでありつまりは日本人はとてもとても清潔な体をしていた、ましてや自分に関わる女性とはすべてが清らかな社会であってほしいと剣士は願ったのである。それはおちんちんが綺麗であって初めて願うことの出来る特権のようなものである。綺麗な体の中を流れる綺麗な血液が綺麗な体の穴から綺麗な皮膚の上を綺麗な奔流でもって滴り落ちるすがたは綺麗であるだろう。しかしながら自分がどれほど他と比較して綺麗であるなどと主張できるだろうか。比較とは多数をもってして比較たるのであり無数のおちんちんをどれだけ食卓の上に並べれば美しいと思える日々が夕日を射ち込むのだろう。それはきっと耳がふたつもあるからではないのだろうか。右側だけにふたつあったとしてそれが悪であると誰が折檻できるのだろうか。わからない。わからないけれど教えられたくもない。しかしながら僕あの構えすぐできる思うほんとだよ107点
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