死球マントラ

全員しぬまで人形かぞえる

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『白い記憶の女』 (1988年) ゴードン・へスラー

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ジーザスなんてことだ!深甚な恐怖がおれを捕えて連続でバックドロップを仕掛けてくるがしかしおれは皮膚性ヌルヌル病なのでいっぱい脱出できる!だいたいにしていきなり甲板に座禅した女が突如出現した謎の画面の時点でもう俺のハート鷲掴み!しかもあんな鮮明戦慄な音声で霊界電話とか発信してきたら、もうね、確実におれ泣く。しかも波にのって仰向けの状態でぐいぐい力強く波状攻撃で迫ってきたりしたらそらこわいでしょ。こわいよね?うん。こわいよね。わかってるならなんでおにいちゃんをこわがらせることとかしちゃうのかな?え?なんでするのかって聞いてんの!ばか!
ということででもそんな恐怖劇場に陥るのもやむなしというくらい同情の余地がないほどの決断をこの女はしたのだ。その決断は決して美化される類いのものではないということが本来ならば正常な人間の常識的な判断と言えるはずなのにこの女の説得力は圧倒的だ。まるで美しい物語だと錯覚してしまうほどだ。不思議にこの女は悩ましげだ。悩ましげという点において破壊的だ。だからあやうくぼくのような善良な市民は騙されるところだ美しい愛ゆえの行為だとか暴力的なまでに愛に生きたとかの正当化が脳内で判決がくだるところだ!あぶない!これは重厚な問題提起だ。たしかにこの女は愛に生きる。でもそれはひとつの愛を捨てたうえでまたひとつ別の愛を選択したに過ぎん。愛を捨てたのだ。愛のために愛を捨てているのだ。しかもそれは確かな肉体的な絆を捨てて突発的な、そこになんの永続性も確実性も保障されない愛を選択したのだ。それはやっと運命的な存在を見つけたとかいう少女漫画的な稚拙な美徳に則ったファンタジックな側面よりもむしろ現代においては逆にその瞬間的な行動の突き動かされ方が狂気としてとらえられるそれはそれは中学生的な発想の範疇の域をでないであろう筋肉的な教科書だ。しかしながらその愛の形の脆さと危うさの魅力というものもまた認めざるをえないところだ。つまりその早急な関係の築かれ方がまた更に崩壊をも同様に早急に立ち現れる可能性を示唆してやまない。そこがまた魅惑的な、堕落することへの果てしない欲求だ。だいたいにしてなにかにとり憑かれたかのように新たな生命を希求するがごとく生殖行為に激しく打ち込むという背徳的な破壊性、それはそれで男にとって実は嬉しい反面と悲しい側面をも併せ持つ虜術でもあるだろう。とにかく愛とは不確かなものであるかどうか正確には知らないけれどぼくらが確信にみちていたものをこの白い記憶の女は圧倒的な速度で覆すのである。究極的に残るのは選択肢としては他人よりも他人ではない、より近しいもののほうがより強固な絆を約束すると信じている正当性というものを完全に覆した行為を繰り広げるのでありこれでもかと神をも畏れぬ攻撃を繰り広げるのであってしかしそれでも鬼畜阿修羅印象に陥らないのはこの女の存在感がある種の崇高さを帯びているからであの法廷での発言の誘導の場面などは神の意志さえかんじたほどの原爆的な威力であるだろう。非力な人間の力では到底抗えないなにかがすべてを操作していてその記憶の中での出来事をぼくらは反芻するように生きる、そんな眩い白い記憶のなかでさえ女は永久に訴求力を失うことなく生きているのでありその姿と触り心地の確かさはまるで覇者だ100点
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