死球マントラ

全員しぬまで人形かぞえる

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『ロスト・イン・トランスレーション』 (2003) ソフィア・コッポラ

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誰もその場所においては帰属することの許されない断絶した個体の連なりによって形成される地方出身者共の集合体としての東京という場所においては誰もがそれぞれ“非”母国語の標準語を共通言語としてはじめてその場所に所属できる協定を結ぶのである。極めて地元民以外の人種で形成される都民と都市とは異質な者同士が同じ所属を、つまりは共通言語で結びつくことを矯正される場所でありそれに適応できない者はいつまでも異邦人として所属を許されることはないのである。この映画における外国人とは(地方出身ながら所属と順応に成功した)周囲の無数の都民と本質的な差はなくてただ程度の差が、日本人と外人という違いよりもむしろ都市に馴染むスピードの差に過ぎないような気もするようなつまりは日本人ではあってもこの外国人の戸惑いと孤独を同様に感じることの出来る町であったりもするという。そんな東京砂漠というおそろしい異空間においては共通言語を会得しないかぎり所属を許されない永久的にストレンジャーであって外人にとっては英語の発音のRとLの違いに限らずここで交わされる言語とは意志を疎通させる手段ではなくて単なる笑える不可思議な音にしか過ぎないのであるのです。たしかに日本語というかアジアの言語は外人にとってすさまじくおもしろい発音らしいしというかじっさい朝鮮語なんかありえないテンションだからね。そういった標準語以外は意味を解すに至らない言語と意志のすれ違いが日常的な町である東京なので外人は意味から切り離された音としての言語と同系列でゲーセンのなかの音ゲーにとりわけ視線集中なわけで言語が意志疎通の目的を喪失してしまった場所では人々が孤立していかざるをえないのは当然なわけでそんな人と人との断絶を許容し続ける意味をもたない言語(音)に支配された町の喧噪から逃げるように外人が集う沈黙の世界たるプールの中での息継ぎの瞬間における音の侵入こそこの映画が音の集合と配列にしか過ぎない言語が飛び交うそこに意志も意味をも伝達できない人々と町を表すのである。ということでパークハイアットってあんな高級なところで田中康夫は毎日ぺろぐりなのか。なんて羨ましい。しかし藤原ヒロシとヒロミックスの顔がきもちわるくてあれだ92点
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