死球マントラ

全員しぬまで人形かぞえる

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『無常』 (1970) 実相寺昭雄

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仏像はすきか?仏像のあの何もかも悟ったかのような氷の微笑が示すのはあきらかにぼくらを見下してバカにしてる笑いだと気づかないか。あれは決して見守ってる微笑みなんかじゃねえ。動物愛護的な、つまりは弱者に向けられた憐れみの視線と、冷笑だ。
これは全宗教全世界共通であるのだろうがつまりがんばった特典としてのヘブンリーな境地とはぼくら人類が漠然と生きてる以上未知な領域の出来事への興味と探求は尽きないわけでその未知なるが故の死(死後)への恐怖というおよそ克服不可能の未知と謎に対してのせめてもの恐怖心緩和策として作り上げた概念なのだろうかいわゆる宗教観の稀薄な日本人にとって唯一といっていい仏教ワールドが指し示す死後の世界、つまり極楽などというのはおよそ実在するはずもないのではないのだろうか。たとえば人生を省みてもその仏教の経典に示された美徳になにひとつ当てはまらず、そして時代にマッチしないという理由から(都合のよい)解釈あるいは簡略化を自ら押し進めるビジネスな寺の形態なんぞいくらでもあるわけでそんな禁忌にみちた己の生きざまを振り返って更になにを根拠に自分が極楽浄土という勝ち組にたどりつけるというんだアホか。すべては地獄におちるしかないのではないのかと全員を問いつめたいわけで。いったい何処の世界に未だかつて鼻くそ食べたことない人間がいるんだ?
当然ながらそんな鼻くそ食べた時点で地獄行き決定に決まってるでしょアホか。というか人間の生きるという行為は必然的に地獄に値すると言わざるをえないツールに満ちているわけでおまえ確実に負け組。
というかそもそも死後とは単一的に地獄的な結末の光景を目指すしか選択肢は存在しないのかもしれないわけで、それでも気休めとしてでも「うまくいけば極楽かも多分。」という淡いラッキーチャンスの設定をしておけばもしかしたら死の恐怖から救われるかもしれず、なるほどおよそ宗教というものの効果が心の“救済”にあるのであるならばいささかもその宗教の意味には矛盾しない!
でもあの仏像の、がんばったところでどこにも極楽などないのに信じておれに縋る愚民どもぉぉ!賽銭箱に金いれろやクソが。といった風情のかもす冷笑ブリザードの薄ら寒さに気づいてしまった仏像マニヤな男子的にはもはやいい子ちゃんでいるのはがまんならねえって事!だって優勝したらもらえるはずの賞品が実はねぇ!とかスタート直前にわかったら誰も走り続けないよー無駄につかれるだけじゃん。絶対わき道でお菓子食ってグレるよー当然だよー。だって我慢してまでも無駄にがんばる、それこそがつまり無常なのですもの4400点
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