死球マントラ

全員しぬまで人形かぞえる

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『ファニーとアレクサンデル』 (1982) イングマール・ベルイマン

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おそれおおいぜ。死ぬぜ。5時間とか普通しぬ。一時間半過ぎあたりに第二部とか始まった時にはもうね今までの時間がかるく第一部だったというのを忘れようとしてたので普通になんかびっくりしたふりをしてみたりねもうこれは一体何部構成なのかとちょっと絶望的な観測すらしたわけだけどしかしなんて素晴らしいんだとその後思い直すことになるよねというかまるで注目しきり。もし俺を核ボタン押す部屋にひとりきりにしてみたら多分押すよ俺、と即答するくらい淋しさに耐え切れないゆえに全員道連れでボタン押してしまうほど心が弱いおれに人類の未来の選択権を委ねてみることのおそろしさに匹敵するくらいの悪魔的な時間をうっとりし続けたよね。というか5時間だけどはっきりいって余裕で見れる。なぜならおそろしいまでの推進力が物語を貫いているので序盤の貴族の豪華な居住から粛々とした神に仕える佇まいへの居住への変遷を軸に悪魔的な業火に巻き込まれるなだらかな下降線があまりに不吉なのですっかり見逃せない対決。なにより神への不信感と自虐的な現実逃避の幻影の機能的連関のドッキングの神秘がすさまじすぎ。幽霊を善人も悪人も等価値として捉えてしまうことの恐怖。善人のみが超人的な幽霊となって現世に「良い」影響「だけ」を及ぼすなんてそんなご都合主義は人の救済のために存在するはずの神がいないと確定された世界では通用しないし善人が出現するのと同系列で悪人も出現することのつまり死者は平等に出没する当然の法則にマジ恐怖するね。でもって子供目線と見せかけて何気にけっこう夜中の秘匿的な要素が物語の中枢に君臨してるんだけど舞台の多くが夜であるという事実の違和感が奇観全体を支配していてそれは他でもなく白夜であることの不思議感で子供たちも明るすぎてねむれませんという話ですよね。格子窓から外を眺めるのも朝と見せかけて夜かもしれぬという実にその異常な明るさが密室感を際立たせてあの窓際へのへばりつき方の病的な窮屈さといったらなんだ。通常暗闇であるべきところで行われる出来事を白日の下に電光石火で曝け出しあたかも舞台の幕の陰翳に隠匿されるべき秘め事のオールナイト的な効果を麻痺させてなんて白昼堂々とセクシャルに立ち振る舞うんだとあやうく錯覚すら憶えるんだけどそうこれは紛れもなく夜なんだ。ただこの神々しいまでの白夜の明るさの前ではなにをやってもまるみえに違いなくそれは神の御前でもまるみえに違いなく亡霊の前でもまるみえに違いなくぼくらの前でもまるみえなのですものおそれおおいぜ。この実力おそれおおいぜ4680点
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