死球マントラ

全員しぬまで人形かぞえる

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『ドッペルゲンガー』 (2002) 黒沢清

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これはもう一人の自分と自分が出会ってしまうのでびっくりするというお話のようですがしかしそのもう一人の別個体の自分とはあきらかに別人格のようであって実際の、というと語弊があるのですが利便上そう定義づけるとして実際の自分にはないものを補填した形として出現する、もっと正確にいえば自分の理想型を(人格の部分に於いてのみ変貌したかたちとして)実現したものとして出現するのです。そしてそのじぶんの理想とする、現実的なものの一切の縛りをものともしないような社会のルールやら理性に囚われないで生きる自由さを獲得してるもうひとりのじぶんを目の当たりにしてお互いが対峙したとき実際の自分がそのもひとりの自分をまえに敗北を喫するのは当然のことだといえます。すこし不良性をかもしだすくらいのアウトローの危険に女の子はよわいはずだからです。だからあの弟が自殺を選択するのもしごく当然の帰結です。だってしたいとはおもっていてもできないのが人間の生きている世界なのですから。できる自分をまえにできない自分は存在価値を失います。なのでこのドッペルゲンガー現象ってすげえいいじゃねえかとか思う奴はくそです。だってあくまで変貌を遂げるのは内面であって外面はいっさいかわらないという切なさ。というか外面かわってしまったらもうひとりの自分と遭遇してびっくりの前提が崩れるから。なのではっきりいってすごいこの機械発明の男はもうひとりの分身がモテてますがそれは既にモテている資質をもっているから攻勢にでたところでモテの実績を積み重ねるのみのすばらしい現象として捉えられてるだけではっきりいってこんなんはすげえいい例だ。
というか悩む理由がわからない。すげえいいことだらけだからだ。なぜなら既に勝ち組の才能あふれていた男の話だからだ。たんに挫折をかんじている期間を救う救世主的な役割を担っているからだドッペルゲンガーが。
それがどうだ。
すでに負け組が確定してしまっているような外面の持ち主が更に好き放題なものとして具現化した内面が表出してしまったなんていったらそれははっきりいって最悪だ。やさしいところしか取り柄が無い人物がその優しささえ捨て去ってしまったらいいところがないじゃない!というか優しさしか取り柄がないと自覚してしている人物はだれでもできるやさしさというところに着眼しやさしいじぶんを世間に定着させていくしか人として認められないからではないのかね。でも外面が優秀な人物はあえてやさしいという内面までをもポイントとする必要性に駆られないのであってやさしいと評されるひともできればそのやさしいというところでのみ必死な努力はしたくはないわけでつまりやさしさしか取り柄がなかった男がやさしさを持て余してしまったらなんて、なんてひどい。というか得てして外面がひどいものは歴史的に冷遇される憂き目を体験するがゆえに全面的に内面も屈折してひどい有り様というがじっさいのところなのでそれはもう実にひどいことだ。でも外面がモテキャラなのにもう一押しが足りないとかの人物には最適な現象だけどしかしそんなことはぼくらは必死に阻止せねばなるまい。なぜならますます僕らがもてなくなる予感に絶望をかんじてしまう恐怖だからだ。これはやはりホラーな話だ。というか何もしてなくてもモテてる奴らが更にトークに磨きをかけてきたらなんて世紀末だ。みんな死ねばいい。
ということでしかしそれは男子像にズームインした場合を想定した物語について言及しているに過ぎないのであって実はもっと素晴らしい予感にもみちているのでこれははっきりいってホラーとみせかけて実は積極的に希望とよべるものの予感がぼくを夢中にさせていて仕方ないからうんこは食べてしまうしかない。というのも、好きなあの子がもう一人出現してしまったら、しかも理性的でない自由奔放なミニスカートとして出現してしまったら僕はどうしよう。1410点
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