死球マントラ

全員しぬまで人形かぞえる

logs

『そして僕は恋をする』 (1996) アルノー・デプレシャン

FI1324238_0E.jpg

なんでこの人たちがこんなにもみんなケツ顎であるのかは未だ解明されていない人類学史上のミステリアスでありそして世界生態調査委員会の報告書の観点からみてもおおいなる謎である。はっきりいって人が住めるくらいなので一体なんなのかその巨大な力というものに遭遇してしまうときに人は計らずも無条件で畏怖してしまうそんな瞬間があるがそれは恋に落ちる瞬間と似ていなくもない気がしたが実際には似ていないだろう。なぜなら恋におちるという事はなにかを破壊する覚悟をもつという責任の物語であるからだ。つまりはたとえケツ顎ではあってもそのケツ顎であるからという理由だけでその対象人物を破壊できるかその覚悟が果たして日本人に持ちうることは可能なのであろうか。おそらくはその見慣れないケツ顎という習性にぼくらは恐れをなすに違いない。知らないということはおそろしいからだ。同様に、人を知っていくという興味にはある種の恐怖が付随する。だから恋はおそろしい。でもおそろしいものに興味があるのもまた人間なのである。おそろしいからこそ力でねじ伏せ破壊し尽したいのでありいや破壊しなければならない、恋とは総じて破壊的であるべきなのである。なにをも破壊しないものなど恋とは認められるべきではなくてそれは真摯に人間と対峙しようとしていないことを宣誓するようなものである。にんげんとは互いに破壊しあわなければいけない。なぜなら自分以外の人間などおよそおそろしいものにちがいないからだ。ミラン・クンデラは優しさを成年期の恐れといっていたが郷愁を持たない人物に恐れはないのでありつまりケツ顎への郷愁度という点において西洋人よりも遥かに劣る民度の日本人にはこのケツ顎の恐怖が物語る虞というものに、果たして対抗できる手段など持ち合わせているはずもないであろう。それは恋に絶対不服従を唱えてもその言葉を唱えてしまうこと自体が服従を意味するのと同じである101点
スポンサーサイト




トラックバックURL

http://komaku.blog44.fc2.com/tb.php/71-e9ef2e79

この記事へのトラックバック

この記事へのコメント

コメント投稿フォーム

Paging Navigation

Navigations, etc.