死球マントラ

全員しぬまで人形かぞえる

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『ジョゼと虎と魚たち』 (2003) 犬童一心

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なにひとつ生きた人間らしい行為をせずしたがってどんな記憶も体験もなしに死んでしまう人生とは恐ろしいことであるよね。たとえばこの娘が陥っていた状況、乳母車に乗ったまま世間と隔絶して死ぬというのは実にこわいことだと思うんだよね。それはつまり例えば死後の世界があるとしてその死後の世界がなにを基準に構成されるか考えてみた時にたぶんそこに人の生きたなんらかの証が介在してはじめて死「後」という領域への侵入と認識されるわけでなにをもって人の死の「その後」が在るかというとそれは人の生きた体験と記憶に因るところが大きく占めるに違いないんだよね。そうでなければ果てしない無だけが永続するのかもしれないんだけどそれはすごい夢が無いから却下だよね。だから外界に触れずにましてや触れる機会が悲惨に絶たれたまま死ぬ運命にあるあらかじめ記憶と体験から物的に隔離された存在である障害者は悲惨だよ。圧倒的に健常者と差あるよ。差がないわけないじゃん。何より自分がそうした世界に飛び出すことができないどうしようもない予め初期設定の段階で自由度の限界を制約された状況と可動範囲を理解している正常な脳意識の働く身体的な不自由な人生はより悲惨だよ。状況を把握しているぶんだけより悲惨だよ。だから死んだ人間の霊は生きた最後の瞬間の状態で思い出とともに永遠に存在すると仮定するとなにも世界を知らないまま部屋に拉致監禁中に死亡した人間の霊は死後の世界でどんな思い出をもって永遠に存在するんだろうとかそんな果てしなくおそろしい思考の波動に襲撃されてしまうよね。それってもしやなにも記憶の集積のない幼児ほど死後の世界は無に近いんじゃないかってこと。死の直前、走馬灯のように記憶が甦ると言うけれどその甦る記憶のページすら持っていない人間はなにを見るんだ。だからおれはなにも知らないまま死ぬのはいやだからどうせならいっぱい映画見てから死ぬっていってるよ。だとしたら自分の不自由な状況の限界に気づいてしまっている障害者当人にしたらもう自分は死んだ人間のように新しい思い出は作るまいとしてこの現実の時間を積極的に生きなくなるのは必然の帰結。もはや押し入れで空想するしかないんだ。しかもその空想には物質的な情報量が足りない。「足りない」と書いて足が不自由とはなにやら示唆的だ。足が不具合なのは拘束された者の印象がある。極めて無力な慮囚だ。でも書を捨て町に出よう結果はわかっているそれでも書を捨て町に出よう。3100点
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