死球マントラ

全員しぬまで人形かぞえる

logs

『スパイダー 少年は蜘蛛にキスをする 』 (2002) デイヴィッド・クローネンバーグ

FI676183_0E.jpg

うお意味なくねこれ。結局のところどうでもいいけどねって物語だもの。なんかこれ悲劇もすべては自作自演の自業自得の夢芝居でしたってことでしょ。でも何気にまったくもって映画の構成上いっさいの破綻もなく緻密な理数系の技術が総動員されてるいつものインテリジェンスがここぞとばかりに爆発してるわけでおもいきし全否定にならない不思議。だいたいにして予め見える事と見えない事というあたりまえの前提のうえでこの世界は構築されていてそれが本来の法治国家であるはずなのにこれが映画的な虚構であるから許されるアクロバット体位だよねという勝手な僕の思いこみが裏切られるというむしろぼくらの当然の間違いを最後に訂正されるだけだ。つまりはおもいきし現実的に不可能な視点と遭遇が繰り出されるわけですがそれは当たり前のようにありえないという普通の着地点なわけでそんなアクロバティックは当然のごとく空想に過ぎないということだ。間違ってねえよ。そして人間の空想の湧出というのは何もないところから無限に産出されてるようでいてその実なにもないところからはなにものも生み出されはしないという当然の帰結。実体験の乏しいちびっこに絵を書かせてみればまったくもって不思議図書館な物体が生み出されるというのは実は稀で大概がどこかで過去に見たことのある絵の模倣或いは復元にすぎないという実験結果。つまり空想とは有限であり非力で万能ではなく元はといえば個人的な実経験をもとに自己の戦闘値の限界を知っているからこその万能感の希求と実現可能へのベクトルが交錯する壊滅的妄想パワーであってだからその自分には不可能であるという経験を通してしか物語を仮想することができないという前提条件のもとに成される行為であってまったくの無知からは死さえもそして死を知らないものは恐怖さえも感覚的に把握できないし把握しきれないことはそれを基盤に飛躍的な創作もできないし実際の外界の感触と圧力を測定する想像力が機能しなければ世界に適合するに著しい欠陥をおこすのは自明。そんな器具類に被害妄想の負の部位をフル武装して合体していけば加速度的に困ったことになりますよねって話。しかもその空想には実体験が絡んでくるわけですからおもいのほか記憶を陵辱する行為とも等しいわけで思い出は奇襲されて脳内分裂の刑確定。母親の残像を淫売的なものに分裂させてその暗闇の隋道でなされる手こき行為と女主人が鍵束をまさぐる光景との相似がこの空想の視点をして虚像の帝都は完成されたものだと気づいてもしや僕はひとり脳内分裂のまったくの主観映像による空想のお供してたわけですかご苦労様ですって感じになってしまうわけですからつまりこの人脳みそに蜘蛛の巣張ってますよねというもうほんとどうにかして79点
スポンサーサイト




トラックバックURL

http://komaku.blog44.fc2.com/tb.php/84-b7f2eb0f

この記事へのトラックバック

この記事へのコメント

コメント投稿フォーム

Paging Navigation

Navigations, etc.