死球マントラ

全員しぬまで人形かぞえる

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『下妻物語』 (2004) 中島哲也

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男の子にはあって女の子に無いものはなんだ!おちんちんだ!イエス!でも決定的に女の子に欠落しているものそれは友情だ。女の子同士の友情など到底ありえない。女友達よりも彼氏を優先するのが女の子だ。なぜならそれは便宜上友達という関係でいるほうが利便性の観点からも都合がいいからそうしているだけでそしてそれは友達といわれる(言える)人は数が多ければ多いほど都合がいいからだ。だからそんな表層的な友達関係よりも優先的に男を選ぶのは当然のこと。なぜならたとえ相手が気に食わない存在ではあっても平気で一緒に行動できるのが女の子だからだ。わたしたち卒業してもずっと一緒に友達でいようねという女の子同士の会話ほど説得力と実行力から懸け離れた空虚な姿はないのだ。なぜなら女の子には説得力あるおちんちんが無いからだ。おちんちんが無い者に恥じらいの感情は生まれないからだ。友達を裏切ってもそこに恥じらいは生まれないということだ。と同時にそれは奥床しさとも無縁だ。なぜならおちんこは恥じらいの文化だからだ。奥床しいことこのうえない存在それがおちんこだ。この男子的恥じらいの文化を共有できなければ友情は成立しないからだ。だから男の子は彼女よりも男友達を優先するんだなぜなら男友達にはおちんこが生えてるからだ。おちんこの無い彼女なんていうのは全国の男子は男らしく積極的に放置すべきなのです。なぜなら友情は最高だからだ!それは男の子だけの先天的な特権なのだ。しかしちんこ除去手術してしまったオカマと女子との関係に不思議友情が成立する事例もある。それはなぜなら現在進行形で女の子寄りの乙女思想にも関わらず過去にちんこ的恥じらいの記憶があることによって(今ちんこがあるかどうかは実際に問題ではないのだ)相手を仮想男の子的な見方でもって友情を開発してしまう能力がオカマにはあるからだ!逆に女の子がオカマに気が許せてしまうというのもオカマは男の子的な結束力と友情を重んじ思想は乙女そのものという女の子のいう形骸化した友情と別次元の真の友情を実現するからだ。ではちんことは一体なんだ?男気だ!つまりそこに解決の糸口を見出せるのである。なぜなら男気さえ獲得できればそれは女の子同士にも友情が成立し得るという逆説が生まれるからだ!そして下妻物語におけるヤンキーとロリータというマッチングとは一見迎合不可能な異種格闘技であるようにもみえるがしかし本質的には同種のリビドーで活動しているのである。ふたつの分野に共通するのは女の子でありながらもある種女の子らしさというものを捨てている生きざまです。一般の女の子が友達よりも男をトップ事項にする極めて異性を意識した行動図式を完成させているのに対してヤンキーとロリータには異性を意識した男の客観的視線というものが欠如している実に男らしい生き方といえます。でも其処で矛盾するのは「男らしい」といえども基本的に男の子は過剰にも異性を意識して生きているということです。真実とは女の子にしかもはや「男らしく」生きることは許されていないという絶望的に男らしさが喪失している時代だということです。つまりヤンキーとロリータにあってヤンキーとロリータでない女の子にないもの、それは男気なのです。ヤンキーとロリータという孤高な生きざまとは男気とハードボイルド要素の復権運動であるのです。そして男気があるもの同士に友情が芽生えるのは必然なのですそれはふつうの女の子していてはドッキングしえないかけがえの無いものであるわけですなぜなら友情とは最高にちがいないからだたとえ其処にちんこが無いにもかかわらず、だ!95点
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初めまして。 

初めて拝見させていただきました。
なんか良く分からないところもあるんですけど、おもしろいですね。
ちょっと読みにくいけど。。。
下妻物語は僕も観ました。95点は納得です。
でも他の記事を見るに決して高くはないのかも・・・!?

  • 2006年01月22日 16:41
  • いわけん #qcoIERwA
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女の子がちんちんを所望したらそれはペニバンという結末に行き着くからね
それはでも男の子にしたらとてもこわいことなんだよ

  • 2006年01月26日 19:59
  • つめたい #-
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